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2013年5月15日水曜日

デモクラシーの擁護者としての君主~~~ウィレム・アレキサンダー新国王の即位と解放記念日


メールマガジン「オルタ」2013年5月掲載分より転載


 

“自由は受け渡していくもの Vrijheid geef je door

 55日は日本では「こどもの日(端午の節句)」。他方、オランダではこの日は「解放記念日」です。第2次世界大戦終結間近、オランダはこの日にドイツの占領から解放されています。その前日4日は「戦没者追悼の日」で、アムステルダムのダム広場には2万人近くの市民が集まり、君主が戦没者追悼碑に大きな花輪を捧げ、20時ちょうどに2分間の黙祷が行われます。サマータイムでまだ昼間の明るさが続くダム広場には、老若男女、まさに、小学生や中学生も集まって追悼の黙祷をささげます。テレビを通してその様子を見ている全国の視聴者たちも、大半が、それぞれの場で、2分間の黙祷をします。

 戦争の痛みと占領軍ナチスによる思想統制。その暗い過去を記憶として思い出し、その上で5日「解放記念日Bevrijdingsdag」が「自由Vrijheid」の祝祭として祝われます。

 今年の「解放記念日」のキャッチフレーズは、「自由は受け渡していくもの」でした。5日の晩、これも恒例行事となった、アムステルダムの運河に設営されたステージの上での水上コンサートには、市民らが、徒歩で、また、ボートに乗って続々と集まってきます。開幕を間近にして、どこからともなく集まった人々が「自由は受け渡していくものVrijheid geef je door」と書かれた横幕を、次から次へと手渡しています。自由を享受していることの喜びを、歴史を通して世代を超えて受け渡していくという意味と、もう一つ、世界に対して、自由のない地域の人々、隣人らに受け渡していくもの、という意味との二つがあるのだと気づかされます。17世紀のオランダは、ヨーロッパの中でも比較的早い時期に、近代につながる啓蒙思想の揺籃となった土地です。自由・平等・博愛という近代市民社会の3原理につながる思想です。一旦、近代市民として自由を享受することを知り、議会制民主主義や法治国家の制度を持っていた国が、ドイツの支配によって自由を奪われた後、戦災の瓦礫と二度と帰らぬ隣人たちの記憶の中で、もう一度その「自由」を取り戻した時に人々が知った「自由」の重さ。それは、ただ漫然としたタテマエだけの美辞麗句ではなく、居なくなった同胞の命を守れなかった自身への罪悪感でもあったといえます。それは、本当の意味で近代的市民としての「良心の自由」を行使することを一度も経験したことがなかった戦時中の日本人、その後の日本とは、明らかに一線を画した人々の感情であったとも私には思えます。

 ところで、今年の「解放記念日」の水上コンサートは、例年に比べ、一層華やかさに包まれていました。それは、その数日前、430日にウィレム・アレキサンダー新国王の王位就任式が行われたばかりだったからです。ステージの真正面に設営された席には、ウィレム・アレキサンダー新国王とマキシマ王妃、そして、退位して再びプリンセスとなり、あたかも君主としての任務から解放されて、心なしかリラックスしているように見えるベアトリクス元女王が出席していました。コンサートでは、様々な層の国民を意識して、クラシック音楽だけではなく、ポップソングやモダンダンスも取り混ぜて行われます。注目の新国王夫妻は、時々、ステージ上の歌手とともに唄を口ずさみつつ、観衆の声に笑顔で応えていました。 

国会の会合として行われる、戴冠無き国王就任式

 さて、430日に行われた新国王即位式の様子は、日本でも放映され、おそらくご覧になった方も多いことと思います。しかし、この儀式がオランダ国会両議院の連合会合として行われたことは、日本ではどれぐらい知られているでしょうか。

 この日の午前、アムステルダムの王宮では、ベアトリクス女王が「退位」の署名をし、君主の地位がウィレム・アレキサンダー皇太子に譲られたことが宣言されました。ちょうど33年前、ユリアナ前女王が「退位」してベアトリクス皇女に王位継承された時に、公衆らが、ヤジを飛ばし、ユリアナ女王の声が聞こえないくらいに騒然としていたのとは打って変わり、今回の新国王の即位は、広場に集まった公衆からの暖かい歓声と喜びの表情に包まれていました。人々の間にまだ強い反独感情があった時代にドイツ人の夫を持っていたベアトリクス。33年間にわたる在位中、市民との距離を縮め、人権問題では積極的に擁護発言することを辞さない女王でした。

 ベアトリクス女王の「退位」と同日、午後に行われたウィレム・アレキサンダー新国王の就任式は、王宮に隣接した新教会で行われました。しかし、このセレモニーは、先にも述べた通り、オランダ国会(第一、第二院両院の連合)の会合として行われたものです。オランダの国王は、即位の時、誰からも戴冠しません。国民から選ばれた議員たちとの誓約を交わすという形で、両院を代表する第一院議会の議長の指揮のもとに「就任式」が行われます。オランダの王位は、あくまでも、議会制民主主義の制度にのっとって、国民の代表が王位にあるものと約束を交わして確約される地位なのです。

 これは、オランダという国が、もともと、市民国家としてスペインの支配から独立し、その後長く「共和国」だったこと、独立国家オランダの王制は、フランス革命以後、ナポレオンの支配を経て1814年になって初めて始まったもの、という歴史的背景と深いかかわりがあります。つまり、オランダの君主は、始めから、国家の支配者であったわけではなく、国づくりをしてきたのは市民たちであり、ヨーロッパが国家主義になった時代に、国の結束を象徴するシンボルとして国民によって召喚されて成立した地位であったということです。その地位に就いたのは、かつて世界的な覇権をほしいままにしていたカトリック国スペインからの自治権を獲得すべく、ネーデルランド共和国の独立運動を指導したオラニエ公ウィレムの血を引く子孫でした。

* セレモニーの模様は、日本でも多くの方がテレビを通して視聴されていたことと思います。(もし視聴されていなかったらwww.uitzendinggemist.nl/afleveringen/1340245をご覧になってみてください)

 以下は、新国王が就任式で行った演説と宣誓です。僭越ですが、拙訳をしてみました。日本の購読者の皆さんの理解の役に立つために、解説に代えて、パラグラフごとに括弧で小見出しをつけ、必要最小限の範囲内で註(*)を入れています。

ウィレム・アレキサンダー新国王の就任演説

オランダ国会両院議員の皆さん、
(立憲議会制民主主義王国の擁護者としての君主)
きょう、私は、オランダ国会両院による連合会議に、あなたがたの王となる宣誓をし、就任するためにここにいます。皆さんは、人々から選ばれた代表者として、ここ首都に集まってきています。このことは、私たちの立憲体制を象徴しています。
オランダ王制は2世紀間にわたって、議会制民主主義と切っても切れない関係を結んできました。のちに私が行う就任と宣誓とはこの関係を確認するものであり、それは「王国規約」と「憲法」とにのっとったものです。
(デモクラシーにおける市民と政府の役割・相互信頼)
デモクラシーは相互の信頼に根差します。市民が政府に対してもつ信頼。それは法に準じパースペクティブを示す政府です。しかし、政府が市民に対して持つ信頼も必要です。公共の利益に対して共同責任を持っていることを自覚し、お互いを擁護し合う市民たちです。公務を担うすべての者は、選挙によって選ばれた者であれ、指名・任命された者であれ、この信頼に対して貢献します。デモクラシーとは、このようにして維持されていくものです。
(君主が持つ責任)
「相互の信頼を獲得するということにおいては、小さい意味においても、また、大きな意味においても常に変わることなく存在する任務があります」そう母君は、彼女の、女王としての最後のクリスマススピーチで述べています。33年間にわたって、彼女は人々を信頼し、また、自らに与えられた信頼を裏切ることがありませんでした。それが彼女の権威の礎であります。彼女は、憲法に根差し、また、1980430日に即位によって厳粛に約束した諸々の価値を擁護してきました。彼女は、そのために、必要と思われる場では、自らの意見を述べてきました。なぜならば、君主がなんらの政治的責任を持たないという事実は、君主が自らの責任を負わなくてもよいということを意味するものではないからです。そうでなければ、私が、これから、このオランダ国会両院連合の会合の場で行う宣誓は、無意味なものとなるでありましょう。
(ベアトリクス前女王への感謝)
 貴方は自らが誓いを立てて約束した責任について完璧な意識をもって女王を務められました。貴方はみずからの公務義務に対して、完璧なまでにひたむきに尽くしてこられました。しかし、貴方は、同時に、人の娘であり、妻であり、家族の中心であり、母でもありました。そして、これらの責任のどの一つに対しても、全く同じように誠意を尽くすように勤められました。それは、時として、心の緊張を迫るものともなりました。しかし、あなたは、これらすべての義務が、皆一度に生き生きと結合されるものであることもご存知でした。あなたは、決して無駄に他の人の助けに縋り付くようなことがありませんでした。私生活において深い悲しみの底にあった日々においても、貴方は、最も愛に満ちた態度で、私たち皆に対して、深い信頼に根差した支えを与えてくださいました。
(大衆人気に拠らない君主)                              
 貴方は、父君による支えを得て、女王として、自分なりのスタイルを作ってこられました。上辺だけの人気は、貴方の航行の指針(コンパス)ではありませんでした。あなたは、一つの長い伝統の上に立っていることをご存じであったので、安定した混ざり気のない針路を維持してこられました。激しい荒波の只中にあっても静かに揺るぐことなく。
 私は、あなたの足跡を継いでいきます。私の公務に関して、私は、明確な像を抱いています。「未来が何をもたらすことになるのか」それは誰一人として知るものはいません。しかし、その道がどこにつながるものであろうとも、また、それが、どんなに長い道であろうとも、あなたの叡智とあなたの温かさを、私は、受け継いでいきたいと思います。私は、次のように言う時、それが、オランダとカリブ海の王国領に住まう多くの人々の感情を代表していることを知っています。私たちが、あなたを私たちの女王として戴くことが出来た何年間もの美しい年月を、あなたに感謝します。
(君主の個性)
どの君主も、その公務に対して、独自の貢献をするものです。どの君主も一人ひとり異なる人間であり、異なる時代の君主であるからです。王位は静的なものではありません。私たちの国法的規則の範囲内で、王位は、変化しつつある環境に対して、常に適応するものであります。こういう余裕は、閣僚も、オランダ両議院も、君主に対して認めています。
(君主の歴史的役割)
同時に、王位は、継続と共同性の象徴でもあります。それは、我が国の、国家としての過去に直接結びついたものであり、その過去は、今日もなお社会が全体として、今後さらに織りなしていく歴史の織物です。歴史の中に、私たちは、私たちが共有する諸々の価値の根拠を見いだします。これらの価値の中の一つは、君主が務める役割に関わるものです。君主は、共同体に奉仕すべくその公務を負うものであります。この土深く根を張った意識は、すでに1581年に、後にネーデルランドとなることになる国の出生証明ともいえるものとなった「放棄布告(het Plakkaat van Verlatinghe)」(*事実上のオランダ独立宣言にあたるもの)の中で両議院によって示されています。
(不確実性の時代における即位の意味)
私は、王国に住む多くの人々がみずから脆弱で不確実であると感じている時代に、王位に就きます。仕事において、あるいは、健康において脆弱であり、収入について、あるいは、生活環境において不確実な時代です。子どもたちが、自分の親たちよりもより良いものを得るようになるということが、以前に比べると必ずしも当然なことであるとは言えない状況と思われます。
(世界規模の多元社会に生きる市民)
誰にとっても、私たちは、私たちの人生に影響を与えるものごとの変化に対してわずかしか把握できていないように見えています。しかし、私たちの強さは、社会から引きこもって隠遁することにではなく、協働することの中に見出されるものです。家族・親族として、同朋として、通りや近隣に共に住む住民として、私たちの王国の市民として。そしてまた、国際的結束をもってしてのみ解決することが可能な、山積した課題に直面している、この地球の住民として。
(オランダ人のアイデンティティ)
結束と多様性。独自性と適応力。伝統が持つ価値への意識と未来がもたらすものに対する好奇心。このような特性が、私たちを、私たちの歴史の中で、今ある私たち自身の在り様として形成してきたのです。
(市民が持つ可能性)
 自らの可能性の限界を知るとともに、この限界を可能な限り拡げていこうとする衝動が、私たちをここまで大きく成長させてきました。今ここに立っている5人の卓越した同朋(*)は、その象徴的存在であるといえます。彼らは今日、ここで、一つの伝統的な役割を担っていますが、彼らは同時に、私たちが目指していこうとしているものの生きた証しでもあります。
*ウィレム・アレキサンダー新国王は、国王就任式にあたって、式後「就任」の事実を公衆に宣言する役割を持つ5名を、前例にない斬新なやり方で選んだ。ユリアナ女王とベアトリクス女王の場合には、ドイツ占領のレジスタンスや戦争の英雄を選んだが、新国王は、科学者、軍人、宇宙飛行士、スポーツマン、官僚を、「それぞれの分野で世界的に卓越したレベルに到達した人」として選任している。科学者はロバート・デイクグラーフ(プリンストン大学の高等研究所の所長を務める理論物議学者・数理物理学者)、軍人はペーター・ファンウーム(実の息子をアフガニスタンの平和部隊活動で亡くした軍総指揮官)、宇宙飛行士はアンドレ・カウパー、スポーツマンはアンキ・ファングルンスヴェン(オリンピックの馬上馬術で3度金メダルと5度銀メダルを受賞)、そして、官僚は、ルネ・ジョーンズボス(翻訳・通訳家から対米大使の任を経てきた外務省長官)である。
(個性ある市民が共同で作る社会)
 
そして彼らの後ろには、さらに何十万人ものその他の人々が、それぞれ自分なりに、一人ひとり他とは区別される存在として立っています。彼らの専心努力も欠くことのできないものです。私たちの国の希望は、一人ひとりそれぞれ独自の能力を持った人々すべての、小さな、そして大きな共同の中に見出されます。豊かな探究心、勤勉、そしてオープンさは何世紀もの年月にわたって私たちの強さの源でした。この強さをもって、わたしたちは世界に対しても多くの貢献ができます。
(市民の社会参加と関与の鼓舞)
王として私は、人々に自らが持っている可能性を積極的に利用するように鼓舞したいと思います。多様性が大きければ大きいほど、私たちの確信するところや夢も大きく異なるでしょう。たとえどこに生まれようとも(*)、オランダ王国においては、すべての人が自らの声を他者に聞かれるためにあげ、対等な関係に立って共に社会を築いていくのです。
*オランダは、昔から、移民を受け入れてきた国といわれる。特に、2000年ごろから、オランダでは、外国生まれの移民に対する排斥傾向が、社会に目立ってきていた。ここでの現地は、それが意識されていると思われる。
(デモクラシーの擁護者としての君主の公務)
 誇りを持って、私はこの国を代表し、新しい好機発見の助けとなりたいと思います。私は結束を固め、つながりを示し、私たちオランダ人が大きな喜びの時も深い悲しみの折りにも、一つになるよう務めます。そのようにして、わたしは国王として市民と政府の間の関係を強化し、デモクラシーを維持し、公共の利益のために尽くします。私はこの公務を感謝の気持ちを持って遂行していきます。私の両親が私に与えてくれた養育と、私がこの公務につくための準備としての時間を与えてくれたことに感謝して。これまで多くの人たちが助言や行為をもって私を助けてくれました。この方達すべてに感謝の辞を述べます。
(オランダ国王になるための準備)
 これまで何期かにわたる内閣が、オランダ国会の支持を得て、私が様々の異なる分野で独自の役割を担う機会を与えてくれました。それを通して私はオランダにおいて、またオランダのために多くのことを成し遂げることができました。この仕事を通じて、私は、自分が自分の立場において何を意味することができるかを意識できるようになりました。それはまた、例えば、水に対してどのように責任を持ったか変わり方をすべきか、ということなど、私たちの国にとって根本的なテーマについてどう関わっていくべきかの理解を深めるチャンスを与えてくれるものでもありました。
(マキシマ王妃の立場)
国内及び国際的な場での経験が、今の私を形成してくれました。私は、信頼に根差して、自分自身と世界に対してこう言います。私はこの公務を、確信をもって遂行する、と。このことについて、私は妻マキシマの援助にたいして、どれほど幸いを感じているかを意識しています。 彼女は自らの立場が時として彼女に要求してくる個人的な制約を理解しています。彼女は私たちの国を心より愛し、オランダ人の中のオランダ人となりました。彼女は、その多くの能力を持って私の王位としての公務と、私たちすべての王国に尽くす準備ができています。
(誓約宣誓)
オランダ国会両院議員の皆さん、
今日、私たちはお互いに私たちの相互の責任と義務を確認するものであります。
王国規約と憲法とは私たちの共通の基盤です。良き年月も、またそれほど良からぬ年月においても、私たちは頭を垂れることなく、きたる未来に向かって、共に完全なる信頼を持ってさらに建設を進めて行こうではありませんか。この確信を持って、私は、私に与えられた全ての力を持ってして、王として誠意努力していきます。
王国の人々に対して、私は王国規約と憲法を維持し遵守することを誓います。
私はわが全力をもって王国の独立と領土を守り維持して行くこと、すべてのオランダ人とすべての住民の自由と権利を守ること、これらの法律が私に対して良き信頼できる王として課するすべての手段を持ってこの国の繁栄を維持しまた向上して行くことを誓います。
心からの真意を持って、全能の神よ、われを助け給え。

 この宣誓の後、即位式では、両議院の議員一人ひとりが名前を呼ばれ、宣誓を行いました。信仰のあるものは、王と同じ「心からの真意を持って、全能の神よ、われを助けたまえ」という言葉で、また、信仰のないものは「これを誓います」という言葉で、王に対して契約を交わしました。

 

おわりに

 日本もまた立憲君主国です。日本の天皇も「象徴的存在」と言われます。日本国憲法の第1章第1条には『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく』とあります。

 しかし、日本の天皇が象徴しているのが何であるのか、国や国民統合を象徴するとはどういうことであるのか、主権の存在する日本国民の<総意>とはなんなのか。明治維新になって近代国家の制度を作っていった日本に、本当に近代市民を創るという意識はあったのでしょうか。それがなかったことは、教育勅語とそれが生んだ全体主義思想が証明しています。日本人は、近代市民としての「自由」も、また、その自由を基盤とした「デモクラシー(民主主義)」のしくみも知らずに、戦侵略争に加担していきました。戦争が終わった時に、日本人に、「取り返した」自由などはなく、自由も民主体制も、実体も経験もないまま、あたかも、棚から落ちてきたものであるかのように、空気のように当然のものと受け止めてしまったのではないでしょうか。

 それは、この国の「主権ある国民の総意」が単なる「多数決による多数派意見」にすぎず、マイノリティの声は、公的な場でも、また、私的な場でも聞かれることがなく、多様な個性が共同で協力して社会を建設することなど、学校教育制度のしくみや理念としてどこにも存在しないものであることが明らかに証明しています。